人が持ついろんな側面のたった一つを見て嘲笑している状況をよく見る

人が持ついろんな側面のたった一つを見て嘲笑している状況をよく見るが、視野が狭いといえばよいのか、なんかむしろそのただ一つの側面だけを見て嘲笑している状況の方が滑稽である。

まるで、東京に住んでいる人がイギリスに住んでいる人に

「おまえの家から、東京タワー見えないの?うわー。ありえない。」

って言うような滑稽さ。

○○(笑)といった類のキーワードとかの話。

まぁ、実際レッテルを張るという行為は昔からあるわけだし、昔の方が酷かった。

最近は、昔に比べるとだいぶ無くなったのかな。

それとも、レッテルを貼られても実生活上、特に問題にならない程度には社会の包容力が大きくなったのかな。

レッテルを張られた側は実生活上特に問題がなければ、無視すればよいので、やはり嘲笑している状況が滑稽に感じる。

Share

自分を正当化するための反論で自分の正当性を失うのは勿体ない

自分の意見が批判された時、その批判に対して反論するために自分の意見を若干ねじ曲げて迎合してまで(もちろん正当性を保ったままの反論については今回のケースとは関係ない)、他人に対して自分の意見の正当性をアピールすることで自分自身の正当性を失ってはいない?滑稽だとは思わない?

自分が自分の正当性を評価できているのであれば、他人に評価されなくても良いのでは?

他人に自分の正当性を評価されても自分が自分の正当性を評価できなくなった時点で意味が無いのでは?

影響を受けた上での反論はありだと思うけど、自分が納得できないような軸足のブレかたは勿体ない。

とはいえ、利害が絡むような場合は、その利害と天秤にかけて、そうせざるを得ない事もあるのだけれども。

Share

決めるのはいつだってただ一人

みんなで決めましょう。なんて言っていたらいつまでも決まらない。

みんなで決めましょう。なんて言っていても決めるのは決定権を持つもののみだ。

みんなの意見を聞くのは良い。

みんなの意見に影響を受けるのはよい。

でも自分が思う芯となる部分が揺らいではいけない。

周りの意見を自分の芯への肉付けとしてこそメリットがある。

だから決めるのはいつだって、決定権を持つものただ一人。

Share

発言者の視点で考えた場合、できるだけ発言の内容に伴った自分でいたほうが受け入れてもらえる可能性が高い

受け手の大半は結局のところ、発言の内容と発言者自身の情報を分けて考えられない事が多いので、もし発言の内容を受け入れて貰いたいのであれば、できるだけそれに伴った自分でいるか、そう思われるような情報の発信をしておいた方が、望んだ結果になる可能性が高い。

Share

受け手の視点で考えた場合、発言の内容と発言者自身の情報は分けて考えるべきである

発言の内容が、受け手にとって正しかったり意味があったりするのに、発言者自身が発言の内容と伴っていない場合、素直に発言の内容を受け取れない受け手を見る機会が結構多い。

たとえば、たまたま遅刻した日に、たまたま遅刻ばっかりしている人が間に合ってて、「遅刻したらだめじゃん。」と言われた場合、「遅刻ばっかりしている人」という発言者の情報がじゃまして、「遅刻してはいけない。」という発言の内容を素直に受け取れないという状態。

これは、とても勿体ないことだと思う。

誰が言ったとしても発言の内容自体に変わりはないのだから、ちゃんと素直に受け取れば良いのだ。

#でも、そうできない人が多いから「おまえが言うな。」とか「自己矛盾じゃないの?」といった過敏反応する例を見ることが多いのだろう。

#まぁ、私自身がこのエントリの内容と伴っていない(つまりうっかり発言者自身の情報でバイアスをかけてしまうことがある)のですが・・・

Share

努力とは体を動かすことではない

努力とは体を動かすことではない。

頭を働かせることだ。

その結果体を動かすことになる事はあると思うが。

筋トレだって、頭を働かせて適切なカリキュラムに基づいて実施して初めて効果が出る。

頭を使わないで、とりあえず、適当に体を動かしておくのって、努力しているという誤解に基づいた実感があって手っ取り早くて気持ちよいのかもしれないし、見た目にもアピールできるかもしれないけど、それは努力というのではなくて浪費である。

「こんなに努力しているのに、何も状況が変わらない。」

と思っている人は、どこに問題があるのか、何故変わらないのか、考えることから始めると何かが変わるかもしれない。

Share

風邪とマスク

風邪がなおりかけて、だいぶ楽になるとマスクを外してしまう人をよく見るのだけれど・・・

ちょっと待ってほしい。

昔から、

「人にうつして治す。」

というが、それは「治る頃が一番うつりやすい。」から、そのように見えるだけなのだ。

つまり風邪はなおりかけが一番、人にうつしやすい時なんだから、

マスクは自分を守る以外にも、人に感染させないためにもあるものなのだから、完治するまで是非マスクをしてくれ。

Share

re:簡単になるのはいいことなのか? at 何となく Blog by Jitta

中途半端にコメントするには、長くなってしまったので、記事としてレスします。

>> >簡単になるのって、本当にいいことなのですか?

>> 誰にとってですか?

> 誰にとっても、です。あるいは、大局として、です。個々の事象が好ましい状況になることは、そのためにするのですから、当然と考えます。しかし、長期的、大局的に考えたとき、あるいは後から考え直したときに、本当に好ましいことなのでしょうか。

いえいえ、誤解させてしまいました。申し訳ありません。

大局的に好ましい状況の「好ましい」はどういう視点からみた場合ですか?

と聞いています。

そして、私からみれば、「好ましい状況になっている。」と答えています。

テクノロジが発展し、あらゆることが昔に比べ簡単にできるようになったことで、昔に比べて、肉体的なハンデや距離的なハンデなど、あらゆるハンデが軽減されてきました。

つまり、昔であれば、とてもじゃないけど普通の生活ができなかった人々が普通の生活をおくることができるようになりましたし、人生において、いろんな生活を選択するチャンスが増えてきました。

また、昔であれば、とてもじゃないけど知り合うことができなかった人々が知り合うことができるようになりましたし、外に出なくても(外に出られない人でも)その気になればコミュニケーションを取ることが可能になりました。

これは、前段で書いた文化やテクノロジの発展でハンデが克服された例でもあります。

もちろん、その影響で、一部の人が独占していたパイが解放されたため、既得権益は昔に比べて減ってきたともいえます。

私からみると、これは「好ましい状況」であるといえますが、独占できていたパイを奪われた一部の人にとっては「好ましい状況」とはいえません。

>> 物質的に満たされた状態じゃないと、多分、それを満たすことに終始して、それこそほかの本質的に大切な物が犠牲になるのではないかと思います。

> そうでしょうか?

> 例えば、人間は「明日の糧」という物質的なことを満足するために、農耕を行います。では、農耕を行わないその他の動物は、満たされていないのでしょうか。あるいは、幸福ではないのでしょうか。

物質的に満たされた状態=「足ることを知っている状態」なのですが、ここも誤解させるような書き方になっていたようです。

物質的に満たされた状態は千差万別ですが、衣食住がままならない状態は、それを獲得しなければ生活がままならないわけで、他のもっと大切なものに時間や思考を費やすことはできません。

もちろん、衣食住がままならない状態とは国によっても違うでしょうし、動物にとっても違います。

> 「足ることを知る」これこそ、幸福の源ではないでしょうか。物質的な満足を得ようとするから、さらにさらに欲しがるのではないでしょうか。

> アフリカなどの「貧しい」とされている国々の人が、「貧しい」のは、「富んでいる」国々と比較するからではないでしょうか。

経済という面だけでみれば、アフリカなどの国は「貧しい」かもしれませんが、先ほど述べたように衣食住がままならない状態は国によって違うと思っているので、私は「貧しい」とは思えません。

> 富は、さらなる富への要求を生むからではないでしょうか。これこそ、「貧しい」状態ではないでしょうか。

これは、富という言葉に対する嫌悪、偏見からでしょうか。

継続的に富を得る方法を知っていれば、このような偏見は出ないかもしれません。

継続的に富を得るには、搾取するのではなく、周りの人も含めて継続的に満たしていく必要があり、その周りの人が富を生みます。

周りの人も含めて満たしている人が果たして「貧しい」状態でしょうか。

> あるいは、先日マリック氏のマジックを見破れるか?というTV番組がありました。彼らは、驚異的な視力を持っています。物質的には日本人の方が豊かかもしれません。しかし、肉体的にはアフリカで昔ながらの生活を続けている人々の方が豊かだと言えるかもしれません。

視力という点で言うと、「視力が高い=優れている」とはいえません。

人間は(動物もですが)住んでいる環境に適合するようにできています。

今の日本の都市だけに限定すれば、「近視の方が生活する上で都合が良い。」という話もあります。

(とはいえ、私個人の話をすれば、レーシック受けたいなぁなんて思っているのですが・・・)

最後に

> 果たして子どもは成人した後、それでも「良かった」と思うのでしょうか。(いや、他人にはわからんけどね)少なくとも、母親はもと旦那に「あんたはひとり分、ひとつのゲームで済むからええどなぁ、こっちはふたり分の費用と、これからのゲームの分も出費がかかんねんで。おまけに親子の会話もなくなるし。ほんま、最悪やわ!」と、怒りのメールを送るくらい、好ましいことではなかったようです。

親子の会話は家庭がうまくいく必須要素ですか?

それぞれが自分のやりたいことをやっていても、家族を感じていれば良いのではないでしょうか。

もちろん伝えたいことがあれば、言葉を尽くして伝える必要がありますが・・・。

親子の会話は付随するものであり、無理にするものではありません。

まぁ、正直なところ「どんだけゲームやってるんだ。」という感想を持ちました。

単純に責任をゲームに転嫁しているだけに見えます。

(もちろん、ゲームをしなかった場合を試せるわけではないので、どちらが良かったかわからないし、会話があった場合にうまくいったかどうかもわかりませんが。)

Share

今時の若者よりも大人のほうがよっぽとモラルが無いと思う

社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった

「東国原知事が徴兵発言で釈明も…今度は「徴農制」」政治も‐地方自治ニュース:イザ!

今時の若者よりも大人のほうがよっぽどモラルが無いと思う。

「今時の若者は」

と言っている大人達は知らないところで

「今時の大人は」

と言われていることを知らない。

若者は、そんな大人を見て育つのだということを忘れてはいけない。

Share