なぜ、そんなに憤慨するの?

自分とはまったく関係ないような、むしろ私的な不適切な行動に対して、なぜそこまで憤慨出来るんだろうか。

そして、その数秒後には憤慨したことすら忘れている。

そんなことを人は何度も繰り返す。

まるで自分の欠陥を見せつけられている気になるのかもしれない。

もしくは、自分の欠陥を誤摩化せるだけの他人の欠陥を見つけたと思うのかも。

無意識のうちに、その、なにか居心地の悪いものを自分から切り離したくて、自分は違うのだと、そうはならないと、そんな気持ちで憤慨したり罵倒したりするのかも。

一種のストレス発散か。

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最後の手に縋る前に一旦、撤退するのも一つの手段である。

それを使ってしまうと、もうどうにもならないような最後の手に縋る前に、それがどんなに嫌な事だとしても、どんなに許せないことだとしても、それでも撤退できる場所があるならば一度撤退してみるのも良いのではないだろうか。

最短距離しか見えないというのは、結局、視野が狭いという事である。

最短距離しか見えなくて、でもその道を進めなくて苦しむのは勿体ない。それは結局のところ貴方にとっての最短距離ではなかったのだ。

最短距離だけではなく、いろんな回り道も見えるように視野を広げて、いざという時はそっちを選択するという事も必要だ。

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音楽等の文化やコンテンツ、ソフトウェア産業を壊すのは

コンテンツを享受しておきながら、なにかと(自分をごまかす、もしくはごまかしたつもりになれる)理由をつけて対価を払わない人々だ。

そろそろコンテンツ泥棒から卒業しては、どうでしょうか。

よく聞く理由として、

・お金払うくらいなら使わないから。

・その価値が感じられない。

・著作権者に直接支払う以外は認められない。

などなど、盗っ人猛々しい。

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運用・保守といったフェーズが軽視されがちなのはIT業界に限った話ではない

イニシャルコストとイメージだけ重視してランニングコストを無視した、断熱材が薄くて、やたらと開口部の広い建物とかね。

そうそう、最近の例で言えば、内閣改造とかね。

一番大事で大変なのは、どう使いたいか、どう使っていくかであり、作るフェーズまでというのは、そのための準備期間でしかない。

ローンチはゴールではなく、やっとスタート地点に立っただけでしかないのだ。

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購入厨という言葉を知った

コンテンツを正当に購入している人たちに対する揶揄らしい。

やっぱり、コンテンツ泥棒の皆様が使っている言葉なのだろうか。

それにしても、ただ「非常識」なだけで「違法」ではないレベルのものを、とことん晒して叩くくせに、コンテンツ泥棒を晒して叩かない事がとても不思議である。

そして、そんな状況を憂う。

未来に有益なコンテンツが生まれるチャンスを潰している気がしてならない。

早くこんな不健全な状況から脱却できる事を望む。

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オンラインとオフラインはもっとシームレスになるべき

最近というか2000年にさしかかる頃から「オンラインとオフラインを区別しないでもっとシームレスに意識できないものかな。」と思っている。

もうテクノロジ的には充分可能なことが実現出来ていないか限定的にしか実現できていない。

例えば新しい校舎たてるくらいなら、その予算でオンライン小学校とか中学校とかでもよいはずだ。

送り手と受け手。

この場合、先生と生徒だけど彼ら自体はオンライン上に生きているわけではない。

オンラインを利用して物理的な距離を回避しているだけだ。

人は物理的なこの世界に生きる以上、その制約を最大限に受ける。

ただそれをキャンセルしようというだけのことだ。

校舎の老朽化も、

先生の人手不足も、

先生の能力のばらつきも、

登校が困難な生徒も、

電車通学が苦痛な生徒も、

フィジカルないじめも、

(メンタルないじめは残るが)

物理的に一つの場所にいないといけないという制約から起きる様々な不都合から解放する事が可能だ。

学校を会社に置換えても良い。

ほかにも、喫煙者と非喫煙者のコミュニケーションに生じる物理的な不都合も完全に回避できる。

実現するために必要なことがあるとしたら、それは人の意識の変化だ。

今やそれこそが、最大のボトルネックになっている。

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ブログ形式の弱点

日付が記事と同じくらい意味を持ってしまうこと。

人気のある古い記事は今も読まれるが、人気がない古い記事に人気が出ることは少ない。

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