思想的なことがらについての正しさとは、自分が正しいと信じるから正しいというだけなのでは無いだろうか。
だから、自分とは違う思想が間違っているから自分が正しいという、他の間違いに立脚した正しさはあり得ないのではないか。
相手もまた自分が正しいと信じているわけで、結局、正しさとはプライベートで相対的なものなのだ。
だから、思想的なことがらについては自分が正しいと信じていれば良いのだと思う。
他を間違っていると言ってしまう人は、自分の正しさに自信が持てていないということにに気づいたほうが良い。
私が子供の頃に親に教えてもらいたかった、たった一つのこと。
それは、
「人に何かを言われたところで自分自身が変化するわけではない。変わる要因は常に自分自身だ。」
ということ。
誰かに「馬鹿」と言われたからといって、馬鹿になるわけではない。
誰かに「ひきょう者」と言われたからといて、ひきょう者になるわけではない。
「りんご」に「みかん」と言ったところで、やっぱり「りんご」のままなように。
自分を変化させる要因は常に自分自身以外にありえない。
ただ、誰かに何かを言われたことに影響されて、自分自身がそうなろうと無意識に変化してしまうことはあるかもしれない。
でも、それは「馬鹿」と言われて「ああ、僕は馬鹿なんだ。」と真に受けてしまうことから始まるのではないかと思う。
無意識に周りの要求に答えてキャラづくりをしてしまうといったような事である。
だから、子供のころに
「人に何かを言われたところで自分自身が変化するわけではない。変わる要因は常に自分自身だ。」
ということを教えて欲しかった。
そうしたらもう少し自由になれたかもしれない。
ある事件や事柄に対して当事者では無い傍観者が得た瑣末な情報を元に
「私ならこうしない。」とか「私ならこうする。」とか言うことがあると思う。
ここまでは、別に自分におきかえてシミュレーションしているだけだから別に害も何もないんだけど、その後に当事者に対する否定や非難が続くと性質が悪い。
当事者はお前じゃ無いんだから。
夫婦は誹謗(ひぼう)中傷もあり海外で暮らしているという。
現実と好きなことを結びつけられる前に現実から逃げて好きなことだけしていても、どうしようもない。
迷惑をかけた相手から何か言われても、自分が逃げてきたからだと気づかないまま、逆ギレすることしかできない。
うまくいかないことを周りのせいにすることしかできない。
ただ、その場で足踏みしているだけ。
自分だけは必死なつもりだから、余裕も無くなって、いっそうその事実に気づかない。
ちょっとずつ、ゆっくりと現実に占める好きな事濃度を濃くしていける。
いつか現実から逃げなくても好きな事で満たされる。
そう信じて現実と対峙して好きなことにも必死になって、そんな日々を積み重ねる必要がある。
それで討ち死したとしても本望だろう。
もちろん、自分を守るために、諦めて逃げるのも大切なことではある。