世の中は大抵、平等にできている。
そう言うと、きっと大半の人は、嘘だと思うだろう。
でも、本当なのだ。
平等とは、「誰もが同じだけのフィードバックを得る事ができる。」という意味ではない。
平等とは、「誰もが同じだけ行動すれば、同じだけのフィードバックを得る事が出来る。」と言うことである。
誰もが「同じだけ行動」する事は無いので、正しく言えば、「その人の行いに見合ったフィードバックがある。」と言ったほうがいいかもしれない。
結局のところ「自分は悪く無い」「他に原因がある」という意識に問題があるのかなと考えます。
それは「社員のせいにしすぎる管理者」と「会社・社会のせいにしすぎる社員」という構図が「教えたくない経験者」と「育たない若手」を作りだしているのではないかなぁと感じるからです。
二つに共通している厄介なところは、「自分は悪くない」という考えから生まれる「他に原因がある。」というところなのかなと。
そして、そのまま10年20年と経過してしまい、当時「教えたく無い経験者」だった人たちは「人の使い方」のわからない「社員のせいにしすぎる管理者」になり、「育たない若手」は「育たなかった」上に「育てられなかった」ので「教える事を知らない経験者」になってしまった。というのが現在の姿なのかなぁと考えるわけです。
「自分は悪く無い」と思っているかぎり、人は改善しようとしません。「自分は悪く無い」から「変わるべきなのは他」と思い、このままでいいと思ってしまうものです。
つまり会社サイドも、社員サイドも「自分は悪く無い」と思っている限り「何も改善されない。」し、相手に「何も伝えられない」となり「知識」が「伝わらない」となるわけです。
それが、一番の問題なのでは無いのかなと思うわけです。
その「自分は悪く無い」という意識が無くなり「問題」と「その原因」について客観的に向き合えるようになって、はじめて、具体的な事例、問題解決手段等が生きてくるのでは無いのかなぁと考えるわけです。
周りを幸せにしようと心がける事はすばらしい事だと思う。
だが、「周りを幸せにしよう」の意味次第では、全然すばらしく無いことだったりもする。
むしろ、善意なだけ性質が悪い。
例えば・・・
自分にとっての幸せはきっと誰にとっても幸せって事だ。
なんて思ってる人が猪突猛進とばかりに、周りをその信念で持ってして幸せにしようとする。
たまたま、周りに信念が一致する人ばかりがいればいいかもしれない。だが、大抵の場合、そんな訳はない。「自分」と「周りの人」は同じ人間では無いからだ。そういった場合、その「幸せにする」という行為が「周りの人」にとってはとても都合の悪いこと・・・率直に言えば、いい迷惑なのである。
では、「周りを幸せにしたい。」と考え行動するとき、どうすればいいのかといえば、「押しつけない。」または、「自分にとって嫌なことをしない。」ことが最初に行われるべきで、その後に周りのニーズ、つまり周りの人それぞれの幸せの定義を汲み取った上で、「周りを幸せにしたい。」という行動を起こせばよいのだ。
皮肉なことに、「幸せにする。幸せになる。」という事が至上の命題である団体が起こす「周りを幸せにしたい」という行動は、たいてい大迷惑だったりするわけで、「妄信も猛進も怖いものである。」といういい例になるのではないのだろうかと思うのである。